ボイトレの実例第6話
いつもの、のんびりとしたドトールでのコーヒータイムを終えると、二人はロビー改札をパスモで通過し所沢駅構内の大広場に出る。
広場のセンターでは、ピアノが用意されていて、腕に覚えある人たちが、代わる代わる、聞き覚えのあるメロディーを奏でていた。
ピアノ前のベンチ席は、老若男女で埋まっている。
ちょっと目を離すとBincoはピアノの近くに立ち止まり、演奏者に、手と目で小さく賞賛の笑みを送っている。中年の演奏者は、微笑み返しをしながら淀みなく何事もないようにピアノを弾いている。
ほんわり微笑ましいひと時である。そんな場所を後にして、駅出口にある交番を横目で見ながらプロぺ通りに吸い込まれる。何時ものように、おしゃべりは絶えない。
B「若い人ばっかりね。仕事しないで何してんのかしら。
そう言えば私の若い頃は、そんな余裕無かったわ。空を真っ黒に覆って飛んで行くB29の大軍が、浅草方面を炎に包んでいる残像を思い出すわ。」
N「お前の住んでた目黒原町交番辺りは、無傷だったんだよな。奇跡の生き残りって訳だな。
自宅に下宿していた、漫画家の福田里三郎叔父さんも残念ながら戦死したんだったよな。」
B「そう。ペラペラ漫画手伝いながら、叔父さんのギター弾き語りの「影を慕いて」をよく聞いてたわ。多分その頃から歌に興味持ち始めたのかも知れないわね。
暑い日の叔父さんの、危ういふんどし姿が妙に脳裏から離れないわ。」
N「その流れで、半世紀をワープして来たBincoが、若者たちの群れの中をカラオケに向けて足を運んでいる訳か。つまずいて転ぶなよ。今のお前じゃ、複雑骨折でバラバラになるからな。」
B「まじに気を付けてるわ。ほら向こうから背中の曲がった杖頼りのおばあさんが来るでしょ。
私より年上かしら?絶対ああいう風にならないわ。背中はいつもピンとしてるわ。」
N「ついでだから言っとくけど、背骨はボイトレの急所だよね。気道であり、体軸であり、しなやかなマイクロチューブでもある。息の流れにしなやかに反応して反発力を生む棒高跳びの棒に変身すると、声も体調も、さらに若返るかもね。」
B「そんな事してたら歳が逆行しちゃうんじゃないの。Noriに先越されたらややこしくなるでしょ。今でも死ぬ予感、全然ないんだから。」
N「ぴんぴんした妖怪Bincoが迷い出てきそうだな。キモかわいく振る舞ってみんなに可愛がってもらえよ。今はキャラの立つ妖怪は結構受けるからな。」
B「ボイトレ呼吸って、目に見えない幽霊と戦ってる風に感じるんだけど、妖怪になってしまった方が相性よくない?」
N「そう言う雰囲気出てきたら、しめたもんだ。気体である息は霊の世界に限りなく近いと思った方が捕らえやすいと思うよ。
お前が当時追っかけをしていた、同い年の裕次郎が、のんびり暮らしている霊界の話を聞いてくるといいぞ。裕ちゃん喜ぶぞ。」
B「そうね、ちょっと出かけてこようかしら。三途の川の渡り賃2000円で足りるかしら。
私、方向音痴だからNori案内してよ。バイト料2000円払うから。チップも多少用意しておいた方がいいかもね。地獄の沙汰も金次第って言うもんね。足りなければ、裕ちゃんに貸してもらえばいいわね。」
N「三途の川の手前までなら案内してやってもいいぞ。万一に備えてテントとシュラフは持参するからな。俺は山男だから、ベースキャンプの野営は慣れてるぞ。
そうだ、次いでだから俺は穏やかな天国より、荒れ模様の地獄渓谷の様子を見に行ってくるからな。」
B「じゃあまた三途の川であいましょう。あっ、もうすぐカラオケ店よ。」